毛猴儿(毛猿)マォフォとは?

毛猴儿の歴史                   中国語原文はこちら
毛猿と言ったら、多分知ってる北京の年寄りの人さえも多くない。これは北京にしかない民間芸術品で、清の末期から始まったが、色々な原因で、私達の前に姿が消してしまっていた。現在、北京では、毛猿を作る職人は3、4人しかいないので、毛猿のことさえ聞いたこともない人が沢山いるのも無理はない。

こういう言い伝えがあった。清の末期、北京城の板章路にある「南慶仁堂」という名前の薬屋があった。ある日、店の二人の小僧が漢方を整理しているところ、偶々、セミの殻、散ったハクモクレンの花の後の毛状の物、ビャッキュウ、シランの球茎及び木通(モクツウ、アケビの茎)の四つのもので本物にそっくりの小毛猿を作りだした。店主はこの「創作」に興味を持ち、この四つの漢方をセットにして、毛猿の製作素材として販売し始めた。それから、「毛猿」は民間芸術品として広がっていったが、清の貴族及び少数の職人の間に限られていた。

毛猿の素材は少ないが、制作者による構想は非常にユニーク。制作者は色々な人々を観察し、個人の特徴を感性的認識しながら、毛状の莘荑を体にして、カットした蝉の殻の頭部と爪を貼り付けたもので猿を作り、猿で人を表現し、様々な芸術品が生まれてきた。

毛猿の題材は主に人間の動き及び生活場であり、庶民生活、民情及び風習などを反映するものが多い。床屋さん、糞取屋さん、水注ぐ人、手押し車を押す人、糖葫芦を売る人(糖葫芦とはサンザシまたはカイドウの実を串に刺し、砂糖を煮溶かしたものをつけて固めたお菓子、中国北部の冬の庶民的な食品)、占い人などなど。あるいは、一つの物語のものもある、例えば、「県知事の視察」、「新婦の迎え行列」などは庶民の間にも大変人気があった。これらのものは(縁日の市)での屋台や東安市場、百貨店のおもちゃ売り場で売られている。近年、作品の主題も新機軸を打ち出し、伝統的な題材以外には、現代生活の内容も入れられている。

現在北京の毛猿作り職人の代表は曹儀簡さんである。彼の毛猿作りは独自なものであり、題材範囲も幅広く、庶民の生活内容以外に、歴史の典故、芝居の物語なども及んでいる。特に、歴史の典故での芝居場面は本物のように作られ、例えば「濡れ猿の冠被り」で、項羽が威張る時の勝手気ままに振る舞う様子は毛猿でその人間の性格を与え、表現し、強い観賞性を持っている。

曹儀簡さんは人から「毛猿曹」と呼ばれている。毛猿作りの復興は彼の一時の奇想天外ではない。子供の頃、彼はよく東安市場に毛猿を見に行き、偶にも2、3個を買った。しかし、遊んでるうちに、毛猿にだんだん興味を持ち始めた。数十年以来、曹儀簡さんが製作した毛猿は以前の職人さんのように、単なる外形を本物に酷似することだけではなく、奥深い民間芸術として、「似と否」の間に工夫して、新しいものを吹き込み、表情も本物に似てるようにしている。そして、工程上でも絶えず改善し、包装までよりよくすることにこだわっている。

曹儀簡さんが作った毛猿は奇抜で珍しく、題材も沢山あり、主に五種類に分けられている。

一、伝統的な題材の作品で北京の雰囲気がたっぷり。例えば、「人力車を引っ張る」、「豆腐売り」、「研ぎ屋」、「一輪車を押す」、「木偶回し」等は面白くて、昔北京の風土と人情を再現している。

二、歴史の題材の作品で、本物にそっくり、寓する意味が深い。例えば、「武林」では、全部で5つの猿があり、座っているのは親方で、武術を修業している二頭の猿の隣に二頭の猿が眺めている。周りに武器の棚があって、様々な武器が陳列していて、練習場の風景を表現している。

三、現代の題材の作品で、本物にそっくり。例えば、「ピンポン」、「バレーボール」、「重量挙げ」など。

四、皮肉な題材のユーモア作品で、人を深く考えさせる。例えば、「馬鹿官僚」、「瞽症治し専門」など、生き生きとしていて、意味深長。もっと面白い「ほらを吹く」では、二人の猿が各パイプを口に入れ、牛のお尻から空気を入れ、牛を膨らませ、誰が一番強いのかを競争している。

五、歴史の物語または芝居物語の題材の作品で、意味が深い。例えば「有理は五八、無理なら四十」での官僚主義、「取り方」での他人に損をさせて自分の利益を計る人の表現などの作品で、人物の表情は徴に入り細をうがっているし、時弊に直撃し、寓する意味がとても深い。

毛猿は20世紀40年代から80年代初期に姿が消えていたが、1983年、曹儀簡さんが製作して毛猿は北京民間工芸品展覧会で再び姿を見せ時に、北京の人を驚かせ、喜ばせた。老舍の奥さんである著名な書画家でもある胡潔青さんは当時既に84才の高齢だが、毛猿の為に自ら詩を書いてくれた。それは半寸猢献京都,惟妙惟肖绘习俗。白描新意,二味胜玑珠。(ごめん、これは訳せません!)

毛猿が再び北京で姿を現した後、若者から、年寄りまでファンは増えてきた。電話や通信などで曹儀簡さんに毛猿の作り方を教えてもらう人もいるし、家まで訪ねて、曹儀簡さんと製作について交流したりする人もいる。彼らが作った毛猿の作品も多様な風格を持っている。若者はディスコで踊っている毛猿を作ったり、農村での生活を経験した北京の人が田園の風景系列の作品を作ったりしていた。

通県に住んでいる退職幹部王中山さんは子供の頃に毛猿を見たことがあって、こざかしく、変化の多い毛猿が大好き。退職後、晩年の生活を豊かにするために、子供の頃の記憶に頼りながら毛猿の製作を試みた。しかし、周りには同じ興味を持つ人がいないために、製作方法などについて交流してくれる人もいない。自分一人で楽しむしかなかった。ある日、偶然に新聞で毛猿曹についての記事を読んで、毛猿曹の作品から彼は大きなヒントをもらった。王中山は自分の創作題材にも特徴があると考えて、過去農村での生活経験をもとに毛猿の製作に入り込み、自分の作品を主に過去の農村での労働生活風景を再現する田楽系列にした。彼はまた一部の作品を持って、北京西城区まで曹儀簡さんを訪ねた。曹儀簡さんは高齢の為に、毛猿の製作ができなくなったが、長年製作していた経験から得た要領を王中山に教えていた。王中山はとても感動した。彼は曹儀簡が毛猿という民間芸術を受け続けてほしいという思いが分かっていた。今、毛猿の製作は王中山の晩年生活の中心となり、この北京にしかない民間芸術を大いに発揚しようとしている。

                                翻訳:宇田翻訳サービス



2004-05-12  77歳の民間芸術家”寧緒庚”先生がご自分で製作された”毛猴”を持って金街の古人類文化遺跡博物館にゲストとして訪れました。これらの作品は100点以上に及び4種類の自然薬材で作られた毛猴は清末期時代から長い年月が経ちましたが製作工程が難しく今となっては後継者がいない状況に直面しています。


毛猴儿の第一人者、曹儀簡先生近影


江守煜先生近影



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